第1幕 誰もいない街

調理用の機関機械(エンジン・マシン)が稼働している。

円形の熱装置に置かれて熱された鉄製の鍋からは、温かな湯気が立ち上っていた。エプロンを身に着けた年若い女性は、にこやかな様子で、鼻歌など交えながらレイドル(おたま)で鍋の中身をかき混ぜている。

家庭的な光景ではあった。

少女は、じっとその様子を見つめていた。

線の細い少女だった。

落ち着いた物腰で、食卓の席に着いて、上品に膝の上に手を揃えた少女。行儀が良いのは育ちの良さの顕れであるように見えるものの、まるで碩学のような白衣を纏っているのが奇妙と言えば奇妙に映る。

小さなアパルトメント。三階の一室。ダイニング・キッチン様式の部屋の中でぱたぱたと調理のあれこれに勤しむ女性の様子を眺めながら、少女は食卓で料理を待っていた。漂う、料理の香り。匂い。息を吐いて、安堵の感情を言葉にしたくなる。

でも、少女はそうしなかった。

自分の隣で行儀よくテーブルについて料理を待つ男と同じように。

少女の視線は、灰色の瞳は、女性を──この部屋の主である優しげな彼女を、ただただ見つめている。言葉を発することもなく。

「ジュネ」

男が少女の名を呼んだ。

少女は、返答しない。視線を向けることもない。

「ジュネ。もう行こう」

少女は返答しない。

男に名を呼ばれても、ただ、エプロン姿の女性を見つめている。

焦がれるように。願うように。

「もうすぐできますからね」

女性が言った。

にこやかで朗らかな声だった。表情だった。

沈黙を保っていた少女が、つられて、唇を開いてしまう。何を言うべきか僅かに逡巡したものの、少女は、女性の言葉から二秒経たないうちに言葉を返した。穏やかに。一歩以上を踏み込まない、踏み込みたくないという気配に満ちながら。

「どうか、お構いなく。あたしたちはお話を聞きたいだけで」

静かな声だった。

外見の割に、不相応に落ち着いた声。

「話ですか?」

「ええ。この街の様子を聞きたくて。街の奥へ進む前にあなたに会えたのは幸運でした。こんな風に、家にまで上げていただいて」

「それこそお構いなくですわ。お気になさらないで。来客なんて久しぶりなの」

「ここには、あなたおひとりで?」

「ううん、兄と両親もいるんですよ。ごめんなさいね、ご挨拶もなくて。外から来たひとが怖いなんてこと、ないと思うのですけど」

「いえ」

少女は微笑む。

何かをひとつ諦めるように、願いをひとつ失うように。

「あなた、ひとりなんですね」

「はい?」

女性は小首を傾げて、少女の言葉の意味がわからないと素振りで告げる。

キィ。小さな、金属と金属が擦れる音がした。

魂が軋む音だった。


ぐつぐつと鍋を煮込む音がしている。

女性は既に料理を終えた素振りであるのに、それでもまだ鍋は煮込まれていた。音を立てる鍋の匂いは今や部屋じゅうに立ちこめていた。男は何かを言いたげであったものの、そっと少女の──ジュネの手が彼の膝に触れると、何を言うこともなかった。

ジュネと男は、ひとりの女性の家にいた。小さなアパルトメント。三○三号室。

食卓。テーブルクロスの上には一輪の花がそっと遠慮がちに飾られている。

出された食事をしかし、ふたりは口にすることがない。

ふたりは、じっと、ただひたすらに女性の姿を見つめていた。

「やだわ。今日も雨だなんて」

女性は窓辺に立って、言った。

確かに雨が降っている。

鍋を煮込む音に紛れて聞き取り難いものの、確かに、降っていた。

雨は窓硝子にぶつかって音を鳴らす。その水滴の色は灰色がかって黒に近い。

永遠の灰色雲が雨をもたらすことはそう珍しいことではなかったし、前世紀である19世紀から空の灰色と黒い雨はある種の現代における風物詩ではあったが、ジュネも女性と同意見ではあった。

雨は嫌。降らなければいいのに。

「こんな雨の中を歩いてきたなんて、大変だったでしょう。おふたりとも」

「いいえ」

ジュネは努めて穏やかに

「いつものことです」

「ずっと歩いて旅を?」

「いいえ、蒸気自動車(ガーニー)を使うこともあります」

嘘ではない。

徒歩が多いが、たまに車輌を使うことはある。

「まあ、すてき。ふたりでガーニーだなんて。高速道路(ハイウェイ)の途中で燃料が切れてしまったらと思うと少し怖いけど、そういう旅もきっと楽しいのでしょうね」

女性ははにかみながら、困ったような笑顔を向けてくる。

「わたしもそういう旅をしてみたいわ。でも、もう、そんなに若くもないし」

「いいえ、お若くていらっしゃる」

「このあたりでは、二十歳を過ぎたら家に落ち着くものなんです。田舎ですから。ああ、それよりも、おふたりは汽車は使わないの? ほら、砲弾列車というのでしたっけ」

「汽車は……」

言い淀んでしまう。

詳しく話せば、会話を続けられないのではないか。

そういう予感がジュネにはあって。

「でも本当、空が晴れてくれればいいのに。雨では歩くのも大変でしょう」

溜息がちに女性が呟く。

洗濯物が乾かないのもぬかるんだ土で弟たちが転ぶのも、全部この空のせい。本当に嫌な空なんだから。そう続けながら、肩を竦めて。

「空はずっとこうですから。晴れることなんて」

「でも、ずっと昔には、そういうこともあったのでしょう? うちのおじいさまが子供の頃には、まだ空が晴れることはあったと言っていたし」

「ええ。前世紀には、まだ」

「碩学さまたちの発明でなんとかならないのかしら」

「どうでしょう」

曖昧に答えながらジュネは頷く。

碩学、か。

碩学。人類社会に貢献する数多の発見と発明を行う、科学者の総称。

尊称として知られてはいるものの、実際、言葉に込められた人々の想いはおよそ際限がなかった。碩学はただの科学者の群れに過ぎない。を発達させて、空をこうして永遠の灰色に染め上げることはできても、元に戻すことはできない。

「えっと、その白衣、あなたは碩学さまなのかしら、綺麗なお嬢さん」

「ジュネです。ジュヌヴィエーヴ。あたしは碩学ではないんです、ごめんなさい」

「あら、あら! 失礼してしまってごめんなさい。こうして我が家においでいただいたというのに、自己紹介もしないで」

「いえ。あたしたちこそ。彼はキリエ。ふたりで旅をしています」

ジュネは隣の男を視線で示す。

背の高い男。キリエ。

整った顔は仮面のようで、殆どの表情を浮かべない。

事実、この家に入ってから一度も彼は表情を変化させていない。鉄面皮という言葉はあまりに皮肉に過ぎるだろうか。今も、紹介をされて尚、表情浮かべずただ会釈するだけで。

「わたしは、ええと。名前。そうね、名前……」

女性は何かをひとつ忘れるようにして、何かをひとつ失うようにして、名を述べる。

「ディアーネ……」

「素敵な名前です」

グリースの神々の名だ。女神の名。

でも、そのことをきっとこの女性は知らないのだろう。

「ディアーネ、それはあなたの名ですか。生まれた時からの」

「ええ。勿論。それよりお料理、めしあがってくださいな」

「本当に?」

「ええと、どうだったかしら……」

あっさりと。

女性は不思議そうな顔を浮かべて首を傾げる。

自分の名であるはずなのに、短く一言確認しただけで、ぐらりと揺らぐ。

キリエが何かを言おうとするのを、もしくは何か行動しようとするのを、今度は腕を強く掴んでジュネは再び制する。まだ。まだあなたは何もしないで。お願いだから。

もう少しだけ、時間を頂戴。

ね。お願い──

「もうひとつ質問します。あなた、いつからここにひとりでいるの」

「ひとりじゃないわ」

「いいえ。ひとりです、残念だけど」

表情を、ジュネは浮かべようとする。

穏やかに。たとえば微笑みを形作ろうとするのだけど、できない。

できなかった。

だからひどく歪んだ表情になった。泣くのを堪えるような、怒るのを我慢するような、微笑むのを途中で止められたような、ひどく奇妙な顔になって。

機関調理器に加熱される鍋の中身の匂いなど、もう、気にはならなかった。

「……ひとりなのよ、あなたは。ディアーネ」

「どうしたの、泣きそうな顔をして。ええと、綺麗なお嬢さん、あなた名前は」

「ジュネ」

「ジュネというのね。あなたは碩学さまなのかしら、白衣を着たお嬢さんなんて、わたし生まれて初めてみたわ。それでええと、こちらの男のひとは」

女性の、ディアーネの言動は明らかに混乱していた。

言葉ひとつ毎に、態度は、少しずつ変化していく。

奇妙に歪む。

ジュネの表情よりも更におかしな具合になっていく。

もう少しでお料理ができますからね。既に鍋の中身を皿により分けた後なのに彼女はそう言った。嫌な雨ね。既に告げた言葉を、再度、窓のほうを見ながら彼女は言った。おふたりのお名前はなにかしら。あなた、白衣を着ているけれど碩学さまなのかしら?

「──記憶の混濁が始まっている」

キリエが短く告げる。

刃を思わせる鋭い声だった。

「やめて」

「けれど」

「……お願い。まだ」

彼の腕を強く掴みながら囁く。

ただ、焦がれるように。願うように。

ジュネは、まだ、女性を──

ディアーネと名乗った女性を見つめていた。彼女は笑顔を浮かべていた。出会った時とそっくり同じ、朗らかで穏やかな、人の良さそうな笑顔。

「こんばんは。まあ、珍しい、こんなところに人だなんて……」

同じ笑顔。

「まだ、生きている人がいたのね」

同じ言葉。

出会った時の言葉、二十三分と二十二秒前とそっくり同じ言葉を彼女は告げる。

同じ顔で。同じ声で。まるで、機関機械式のフィルム映画で、同じシーンをわざと繰り返しで再生するさまを思わせる。何もかも同じまま。

「ええ……。ふたりで、旅をしているんです」

声、なんとか絞り出す。

ジュネの表情がさらに歪んでいく。

笑顔を浮かべる寸前のように、憤りを爆発させる寸前のように、涙を零す寸前のように、けれども決して涙の雫を瞳に浮かべることはなく。

何かに耐えるように。願いを、打ち捨てられたかのように。

焦がれる想いすべてを引き裂かれる最中であるかのように。

「ジュネ」

キリエが名を呼ぶ。

ジュネは返事をしない。したくなかった。

「このひとは」

──このひとは、何だというの。

──やめて。やめて。あなたは言うの。言ってしまうの?

「やめて」

──ねえ。やめてキリエ。

「このひとはもう駄目だよ」

「やめて」

「彼女は駄目だ。ディアーネは彼女の名前ではない。いや、名ではあるが」キリエの瞳は彼女を見据えている。射貫くように。「それは呪いの名のひとつだ」

「やめて。ね、キリエ。このひとは違うかも知れない」

違うかも知れない。

でも、キリエの言う通りかも知れない。

「なんのお話をしているの? ふたりとも。喧嘩するのは仲がよい証だなんて言うけれど、わたしは喧嘩は嫌いよ。やめて頂戴。さあ、めしあがれ。スープが冷めてしまうわ」

女性は笑顔でそう告げる。

どろりと濁って、人間にはおよそ耐えきれないだろう悪臭を放ち続ける、沸騰するタールが注がれた耐熱皿ふたつを示しながら。笑顔で。にこやかに。おいしいシチューができましたからめしあがれ。そう表情が告げている。何を疑うこともなく。たとえ、焼けたタールを喉に流し込むことでふたりが死んだとしても、その表情は崩れないのだろう。

キリエが席から立ち上がる。

ジュネは「やめて」と小さく呟いた。キリエは構わずにジュネの腕を掴んで無理矢理に立たせると、一歩、前へと進む。まるで、女性からジュネを庇うようにして。

「……料理。食べてはくれないのね」

「すまない」

「いいえ。いいのよ。本当はね、料理の仕方なんて忘れてしまったの」

女性はまだ笑顔を浮かべていた。

今や、混乱しきった精神をその両目にはっきりと顕しながら。

すなわちぐるぐると人間にはありえない形で回転させながら、それでも、朗らかで穏やかな笑顔を浮かべたままで。声、ひび割れさせながら。

涙を、一筋だけ流しながら。

「付き合ってくれてありがとう。最後に、人間だった頃を思い出せて嬉しかった」

「ディアーネ、待って」

ジュネの言葉は届かない。

既に、女性の聴覚は失われていただろうから。

「ごめんね。わたしたちは……」

涙の色が変わる。

「もう、生きては、いない、から」

透明な雫から、血の赫色に。

「誰も、彼もを、殺し、尽くすの」

何もかもを嘆く赫、何もかもを怨嗟する赫。

「逃 げ テ」

最後の言葉は、声は、悲鳴は、残酷な金属音で食い破られる。

女性の喉は内側から・・・・破れて、瞬時に、幾つもの金属の棒が生える。棒はぐねぐねと形を変えながら質量を増して、柱と化して、女性の体を包み込む。押し潰すようにして。

ぱしん、と音がして女性の姿が消えた。

喉から生えて巨大化した鉄柱が、無数の小さな立方体となって、一度広がり、ふたたび(つど)って溶け合って。

そうして女性は姿を変えていた。

巨怪に。怪異に。規則性のない、金属を無茶苦茶に繋げ合わせた異形の塊に。

頭部であった場所がぐるりと回転すると、篆刻写真器の撮影用レンズによく似た《眼》に赫い光がぼうっと灯る。黒ずんだ鋼鉄(クローム)の中央で浮かぶそれに、一切の生気はない。そこに命はない。既にこの鋼鉄は、かつて人であったものは、死んでいるのだから。

──機械屍人(サイバーゾンビー)

──このひとも、また、生きた人間ではなかった。

『イ』

『イノチ』

『サイゴ ノ ヒトリ』

『クワセロ』

声。言葉。

それは、それまで聞こえていた女性のものとはまったく異なっていた。

金属の擦れるような音。壊れた魂が軋みながら、残った命を貪ろうとする音。機関機械式の合成音に似てはいたものの、ただの合成音が、地獄の奥底から届く響きを、あらゆる命を食い破る異形を思わせるはずがない。

ジュネの口から短く声が漏れる。

恐怖のためか。

それとも、女性の変貌の無残さのためか。

けれど。

けれども、出現した異形の人型、およそ全長十フィート(約三メートル)大の金属の怪物を前にして、異様に腕の長い“機械製の類人猿”を思わせる姿を前にして、キリエは一切の動揺を見せなかった。瞳も。姿勢も。決断も。彼のあらゆるものは揺らぐことがない。ただ静かに、自らの左手を前へと突き出すのみ。

手のひらを異形の塊へと向けて。

短く告げる。

兵装開放(アルメメント)

──言葉と共に。

──彼の左腕が、変わる。変わっていく。

その光景は、女性がたった今見せた変貌の様子に良く似ていた。

キリエの左腕は内側から・・・・破れて、瞬時に、幾つもの金属の棒が生える。違うのは、金属棒はキリエの全身を包むことなく、ただ左手だけを包んだこと──

彼の左腕は、地上戦車の砲身を思わせる剣呑な形態へと変化していた。

そして。 

激しい爆発音。断続的に。

砲塔から、金属製の弾丸が放たれる。

発射と同時に精製される無数の弾丸は機械死人を穿つ。穿とうとする。秒間三千発の猛烈な速度で射出される特殊弾頭は、かつてA国の陸軍兵器開発局で碩学たちが試算したところでは地上にあるあらゆる物質を破壊し得る、はず、だが。

しかし、弾頭が異形を貫くことはない。

爆発音と共にキリエの左腕から放たれた数千発の特殊弾頭は、異形を構成する鋼鉄の表面で速度と威力を失い、床へ落ちていく。滝だ。弾丸の滝。灼熱した弾頭が、無数に、床の絨毯へと落ちて焼け焦げた異臭を立ち上らせる。

キリエは僅かも表情を動かさない。

部屋には既に、溶けたタールの異臭で満ちている。

『イノチ クワセロ』

「駄目だ」

キリエは落ち着き払った声で告げると、背後のジュネに右腕を向ける。

「高速戦闘を行う。掴まって」

炸裂音。破壊音。

言葉をかき消すようにして鋼鉄の異形が動いていた。

ふたりを諸共に粉砕し、命を抉り取るべく、ねじくれた腕を振るって。直前までキリエとジュネがいた空間を薙ぎ払い、床の絨毯ごと石材を破壊する。飛び散る床の破片ひとつひとつさえもが生物に致命傷を与えうる速度を有していた。

異形の攻撃は実に効果的だった。

腕による圧殺を逃れても、飛散する破片が突き刺されば十二分に殺害できる。

膂力(りょりょく)の割には速い」

声。キリエは、死んでいない。ジュネも。

変異せずに人間の形態を維持した右腕でジュネを軽々と抱えた状態で、キリエは、部屋の扉付近へと移動していた。(かわ)したのだ。 腕の一撃も、破片による副次的な攻撃さえも、すべて彼は回避していた。

『イノチ』

『クワセロ』

「お前には渡さない。何ひとつ。誰ひとり」

赫瞳を輝かせる異形へと短く告げて。

キリエは高速機動を開始する。

速い。速い。彼は、黒い風と化す。

異形の怪物は咆哮して合計四本の機械肢を振るうも、彼を捉えることができない。

如何なる動物とも昆虫とも異なる動きで部屋じゅうを這い回り、鋼鉄の頭部で天井を抉り、更なる変化を果たして回転鎖鋸(チェーンソー)の如き形態と化した四肢を無茶苦茶に振り回す。経年劣化してくすんだテーブルクロスが掛けられた食卓が砕けて、耐熱皿が宙を舞い、枯れきった一輪の花がばらばらになり、調理機関ごと鍋がひしゃげて、沸騰したタールが部屋じゅうに降り注ぐ。

それでも、キリエは無傷だった。

彼の腕に抱えられたジュネも、同じく。

「……遅い」

『サイゴ ノ ヒトリ』

「喚くな」

異形は決して遅くはない。

猛烈な速度で襲い掛かる異形は既に、ほんの十秒足らずで、今やアパルトメントの一室を完膚無きまでに破壊し尽くし、壁を斜めに切断し、天井を、床を、砕いていた。

それでも。彼は。キリエは傷付かない。

あらゆる攻撃を左脚を動かす素振りもなく・・・・・・・・・・・・回避し続ける。

そして、左腕の砲塔から弾丸を射出する。

断続的な爆発音。

やはり、通じない。弾丸の滝が再び流れ落ちるのみ。

装甲型(ブランディ)か。弾丸では通らないな」

僅かに高速機動を止めて。呟く。

言葉を耳にして、ジュネははっと息を呑んでいた。駄目。強い否定の意思を込めた言葉を告げようとするけれど、再開した高速機動のために言葉の殆どは風に溶けて、彼の耳へは届かない。届かない、はずだった。

「威力は抑える」

かろうじて──

彼の返答が届いた、刹那。

ジュネの背中には壁の感触があった。部屋の端の壁。抱えるのを一旦止めて、安全圏と思しき位置で自分を下ろしたのだということをジュネはすぐに理解できた。だからこそ、やめてと告げる。叫ぼうとする。

「キリエ!」

「大丈夫。ジュネ、じっとしていて」

「駄目、光学平気(シャイコース)は──」

黒い改造外套を翻した彼の背中が見える。

背の高い彼の、広い背中。

言葉にせず、何も問題はないよと告げる、彼の背中。

そんなはずはないのに。

「……痛みは、感じないはずだ」

短く告げられた声。

同時に、瞬間的にキリエの左腕砲塔の先端に形成されたものがある。

弾丸の射出口ではない。

つるり、とした質感のそれは透明なレンズだった。望遠鏡の先端に酷似した。特に、今世紀初頭、灰色雲を突き抜けた超上空の研究飛空艇での天体観測用にと開発された天体望遠鏡のものを思わせる、レンズ機構。光学装置。

既に、肘のあたりに存在していた専用弾丸の無限生産機構が姿を消していた。

代わりに機関動力部らしき膨らみと排気口が発生して。

激しい噴煙が噴き上がる。

直後。光学装置から放たれるものがある。

閃光。周囲一体を埋め尽くす、何よりも眩い輝き。

あらゆる物理作用を受け付けない機械死人めがけて、白色の光が、放たれる。

──閃光と衝撃が。

──鋼鉄の死人を、打ち砕く。呆気ないほどに。

「機械死人ディアーネ。撃破」

小さなアパルトメントを半ばから吹き飛ばして、閃帯光(レーザー)射出に伴う肘部動力の過剰活動で体躯をキィと軋ませながら、肌と衣服の焦げ付く嫌な臭いをタールの臭気と混ぜ合わせながら、舞い散る破片の中でキリエは呟いていた。背後に立つジュネを、生体部分である右手で庇いながら。

異形の左腕を勇壮なまでに高々と掲げながら。

ジュネは彼を見上げる。

轟音と閃光の渦巻く中で、ただ、ただ、見上げる。そうするしかできない。今だけは顔を上げていたかった。

俯けば──

きっと、涙が落ちてしまうから。


「無茶をしないで。光学兵器への変異は、あなたに掛かる負荷が大きい」

「大丈夫だ。問題はないよ」

「問題なくはないの」

「それでも、実弾だけではあれらを斃せるとは限らない」

「後で」溜息混じりに「念入りにメンテナンスをするから。いいわね」

告げる言葉、どれほどまでが伝わっているのだろう。

どれほどを分かってくれるのだろう。

自信はなかった。

分かった、と多くの場合で彼は俯きがちに頷いてくれるものの、機械死人と相対する時だけは言いつけを何ひとつ守ってくれない。だから、ジュネは自信がなかった。

半ば以上が崩れてしまったアパルトメントの中で、機械死人の消え失せた戦闘の跡の中で、そっとキリエの体に触れる。彼の手に触れる。右手。

彼の体の多くは機械で構成されている。

生体部位であると辛うじて言えるのは顔と、右手と──

──顔と、右手と、下腹部と右脚だけ。

──あなたは、日に日に鋼鉄の機械になっていく。

内心でジュネはひとりごちる。

もっとも、生身に見えているものが人工物ではないという保証もないのだ。彼は日に日に機械死人そのものと化している。先刻の、ディアーネを名乗った彼女のように、全身が生体の皮膚を被った異形の機械となる可能性はまったく否定できない。

「……無茶を、しないで。お願いだから」

「分かってる」

頷く彼の体からは、金属の音がした。

機械の音。

機械死人と同じ音。

キィ、と──

「また。金属音のする場所、多くなってるわ」

「それより。ジュネ。どうして、あんなに会話を続ける必要があった」

「それは」

視線を逸らしてしまう。

まっすぐに見つめてくる、彼の灰色の左瞳と黒色の右瞳を見つめ返せない。

彼の黒色の右瞳を彩る黄金色は、今、ジュネには眩しすぎた。

「もしかしたら……」

「もしかしたら?」

「まだ、彼女は生きているかもしれないと、思ったから……」

「生きている人間はもういないよ」

「でも」

──でも、何。何だというの。ジュネ。

──何が言えるの。

「……いるかも、しれない。まだ。どこかには」

──本当に?

自分自身を、そして彼を、騙していないとは言い切れない。

エゴだけで彼を危険に晒したのではないか、と。

そう言われれば、もう、ジュネにはどうしようもない。その通りだから。

「ごめんなさい。キリエ、でも、あたしは諦めたくない」

「いいさ」

ジュネの言葉を、彼は遮った。

そして促す。静かに。責めはしない、責めてはいないと言いながら。

「この街でも試す・・のかい」

「ええ」

頷く。今度こそ、彼の視線を受け止めて。

キリエの右手を強く握りながら。

「そうするために、あたしたちは旅をするのだから」

振り返りながら、ジュネは見渡す。

苛烈な戦闘の余波で外壁が完全に崩落して露わになった“外”を。

すべての空を覆う灰色雲から流れ落ちる黒い雨に充ちた“外”を。

砕け、崩れ、朽ちかけて、巨大な《柱》が突き刺さった“外”を。

──それは、果てなく続く廃墟の街だった。


雨が止んでいた。

もう3日以上も降り続いていた雨が止んだ、けれど、空が晴れることはない。

世界は永遠の灰色雲に覆われている。

それは、世界がこうして命を失う前からそうだった。空の喪失が世界の終わりの前兆であったのだとする碩学はいたものの、もう、誰もいない。少なくともあたしと、ジュヌヴィエーヴであるあたしとキリエは、そう言うことのできる人間には出会っていない。

アパルトメント、ううん、いいえ、少し前まではアパルトメントの形を辛うじて残していた廃墟からあたしたちは出る。街へと。

砕けた階段を下りる際、キリエが抱えてくれた。

機械の左腕で。

人間の膂力を遙かに超える彼の腕なら、あたしの体重を支えるのは容易。人間の跳躍力を遙かに超える彼の脚力なら、軽々と、砕けた階段をものともせずに地上に降りられる。

「ありがとう」

「怪我はしていないか」

「ええ」

短く頷いて、あたしは彼の腕から降りる。

空を見る。雨は止んでいた。

空の果ての太陽を思わせる白さがほんのりと混ざった灰色の空は、現在時刻が昼過ぎであることを教えてくれる。彼女は「こんばんは」と言っていたけど、本当は、まだ昼。きっと時間感覚も既に喪失していたのでしょうね。

キリエは、多分、その一言を耳にした瞬間から疑っていた。

もしかしたら彼女の姿を目にした時、声を耳にした瞬間から。

生き残っている人間はいない。

最後の命はひとつだけ。

他のどこにも、ありはしない。

それは、確かに、旅を続ける現在のあたしたちにとっての厳然たる現実だった。

それでも……。

あたしは、諦めない。諦められない。

誰もいないなんて思わない。思いたくない。

だって、ここに、少なくとも命はひとつあるのだから。

監視機(アイポット)を出すわ」

「撮影は──」

「うん、彼女のことも撮影してる。記録してあるわ」小さく頷いて「もしも本当に、あたしたちが最後なのだとしたら、すべて。出会ったすべてを記録しないと」

「きみはいつもそう言うね」

「そうよ。あなたが忘れないようにね」

あたしは白衣の下の鞄から小さな機関機械を取り出す。

正確には、碩学機械(ハイ・マシン)

量産を前提として設計される通常の機関機械と違って、優秀な碩学が採算や量産性を度外視して作り出した、特別な機械。性能が高いというよりも、他に類を見ない奇抜な発明品であることが多い。

あたしが取り出したのは、手のひらに収まるサイズの小さな丸い機械。

ホバー式の飛行装置を主体とした機構で、主な目的は、搭載された篆刻撮影機による風景の撮影と記録。あたしは、あたしたちの旅をこれで記録する。

動体反応を感知して攻撃をしてくる機械死人もいるから、常に出し続ける訳にはいかないのだけれど、もう、この街にはいないはずだから。

先刻、この街の機械死人は滅びたのだから。

「いい子ね。ついていらっしゃい」

「機械は喋らないよ」

「……気分の問題」

キリエの言葉の通りでは、あるのだけど。

あたしは監視機に、ついつい言葉を掛けてしまう。

勿論、反応などありはしない。ただ、あたしの音声入力を受け付けて、ピ、と小さな合成音を鳴らして命令受諾の宣言をするだけ。

「行きましょう。汚染度は高くないようだから、もしかしたら」

「そうだね」

キリエは頷く。頷いてくれる。

あたしが、どれだけ愚かなことを続けようとも。

あたしたちは足を踏み入れる。

廃墟の街、B市へと。

機械死人へと変じた彼女のいたアパルトメントは実のところ郊外部にあって、街の中心部からは遠く離れていた。

元は穏やかな住宅地だったのでしょうね。

一軒ごとに広めの庭がある、住宅地に特有の大きな家々。ゆったりとした構えのアパルトメント。広い道路の中心に規則正しく植えられた街路樹。

今やそれらのすべては朽ち果てて、見る影もない。

家々の殆どは穿たれて、元の形を保っていない。

アパルトメントの多くもひどく崩落していて、たとえば部屋まるごと抉られている状態の建物もあった。大きなものに──建築物よりも大きなものに──囓り取られたようにして。

舗装道路は殆どが砕けていて、岩場のようになっていて、あたしはキリエに抱えられなければ移動することもままならない。運動、あまり得意なほうではないから。

街路樹はひどい有様だった。

形こそ僅かに残っているものの、すべてが真っ黒に焼け焦げて炭化している。

当然、風雨に耐えられるはずもなくて。殆どが砕けて、その名残が突き立っているだけ。

「ここも酷いな」

「でも、まだ、死んでいないわ。だから、まだ生育するかも知れない」

「そうだね」

「……時間の問題かも知れないけれど」

「諦めるのは、きみらしくないな」

「諦めてはいないわ」

でも。もう、動く命は存在していない。

動物も植物も区別なく、機械死人はすべてを殺すから。

微生物の類は別とすれば、あれらはあらゆる命を偏執的なまでに鏖殺(おうさつ)してしまう。

「このあたりでいいわ。降ろして」

あたしはキリエの腕から降りると、まず、周囲を見渡す。

視界に入る超大な《柱》をあたしは見ない。あれを見ても意味はないから。

灰色の空の下、街の中心部に聳える、ふたつに折れた高層ビルディングが見える。

構造必然的に、街のほぼ中央の地下に据えられた大型蒸気機関(メガ・エンジン)は、きっと、あのビルディングの根本で粉々に砕けているのだろうと分かる。ああいう、土地を象徴するランドマークの地下に、得てして大機関は設置されるものだから。

数秒に一度、どす黒い煙が、砕けたビルの根本から噴き上がっている。

ぐにゃりとねじ曲げられた民家の煙突。

何かに踏みつぶされて、囓り取られたような、街並み。

誰もいない街。

死んだ都市。

割れた舗装街路から僅かに覗く黒い土。真っ黒な土。

そこに、あたしは、鞄から取り出した小さな緑色の《種》を植える。

ただの種子ではないわ。これは特殊な《種》。尋常な命が生育可能かどうかを計ることができる、あたしの、とっておき。

土に《種》を埋めてから数秒で変化が起きる。

異常な速度で芽を出して、そして──

花開く前にそれは朽ちて、ふわり、と砂粒のように消えてしまう。

「……ごめんね、時間取らせて。ここも駄目だった」

「でも、蕾にはなった」

「汚染度が低かっただけ」

あたしは小さな声で告げる。

勝手、よね。本当に。

あたしが我が儘(エゴ)でこうしているのに、勝手にこうして、勝手に落胆している。

あたしがキリエを巻き込んでいるのに。

「彼女が滅びたことで、ここでも、死が始まってしまった」

静かに続ける。「すぐにああなるわ」と。

あたしの指さすところ。ねじ曲げられた、民家の煙突の名残。

あたしの灰色の瞳は見る、何かをひとつ諦めながら。

キリエの黒色の瞳が見る、輝く黄金色を添えながら。

監視機の機械の瞳が見る、あらゆるものを記録して。

冗談のようにぐにゃりと歪んだ煙突が、虚空に向かって二倍の長さに伸びたかと思うと、瞬時に、数百の小さな立方体へと変化して、同時にどろどろと溶け出していくさまを。

あらゆるものをねじ曲げる、あらゆる生命の存在を許さない汚染のさま。

万物の死。物理の死。世界の死。

「物理法則の死。ここもすぐにぜんぶ死ぬわ。だから」

あたしは彼の瞳を見ないよう、努めて。

灰色の空を見て。

囁く──

「行きましょう。キリエ。ここも、最後の場所ではなかった」

そして、あなたは言うの。

覚悟を込めて。

「行こう、きみのために。きみが生きていけるどこかへ」

そして、あたしは囁くの。

決意を込めて。

「いいえ、あなたのために。あなたが安らかでいられる最後の場所(サンクチュアリ)へ」

──ふたり寄り添いながら、すれ違いながら。

──死んでしまった世界の果てで。

「灰燼のカルシェール」挿絵